閻魔堂、二の丸跡


閻魔堂
「岐阜市教育委員会」所蔵
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「木造閻魔王坐像」(岐阜市所蔵、市指定重要文化財)
 閻魔堂に安置されている「木造閻魔王坐像」は延文3年(1358年)5月、土岐頼康が四代目守護ショックとして岐阜県土岐郡から穀倉地帯の美濃へ進出し、岐阜市下川手に「革手城」を築いた際、「鬼門・悪病よけ」と「美濃の繁栄」を祈願し、閻魔堂を建立し、安置したと伝えられています。

 像の高さは40Cm、寄木作りで、忿怒相の相貌をなし、王冠を被り、右手に笏を持ち、左手は膝上に置き、道服を着ている。木造の上に泥絵具が厚く塗られており、鎌倉末期頃の造顕と推定され、市内でも数少なく珍しいもので昭和50年9月9日に市指定重要文化財に指定されています。

 この座像は、慶長5年(1600年)8月23日に岐阜城が落城するまでは、川手村の閻魔堂に安置されていたが、その後は、僧職の家で保管され、昭和50年9月に岐阜市に寄贈された。
 昭和51年9月21日に岐阜市の鬼門除けとして金華山頂岐阜城二の丸跡に、室町時代初期の建築様式に合わせて建設された閻魔堂に安置された。

 (慶長5年9月の関ヶ原の合戦の前哨戦として行われた8月22日の岐阜城攻防戦では、織田信長の孫・秀信が7500の兵を引き連れ岐阜城を出て川手村の閻魔堂に本陣を構え、18000の兵を率いる東軍、池田輝政と対戦したが力及ばず敗れ、敗走し、翌23日、岐阜城が落城した。)

 入試必勝・学力向上・商売繁盛・家内安全・交通安全・火盗難よけなどのご利益を求めて一般の参詣者がある。

 閻魔王の由来についてはこちらを参考にしてください。 

右側の旗が閻魔堂の旗です。
  

正面の掲示板の拡大図

ロープウェー山頂駅から閻魔堂へ入る位置にある二の丸門